希少車両と暮らす〜キャブライトが働いている。サイドバルブいまだ衰えず

希少車両と暮らす〜キャブライトが働いている。サイドバルブいまだ衰えず

 

希少車の隠れた定番、初期の小型キャブオーバートラック。

そのなかでも残存率のきわめて低いダットサン・キャブライトが山梨の旧城下町で生きていた。

その長持ちの秘訣はどこにあるのか。

 

新車時からの2トーン

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オリジナルの2トーンに「カゴメクレンザー」の看板書き。

以前は荷台のキャビン側に補助席を付け5人乗りとしたが朽ち果て、今は2人乗りだ。シャシーはダットサントラック120型と共通。よってホイールベースは乗用車110型と同じ2220㎜。車両製造は新日国工業(現・日産車体)による。

 

 

48年間、ワックスかけてないよ

バブルの頃、ある著名な自動車歴史家がこう言った。「大衆車は残らない。博物館は大衆車を大事にすべきだ」と。

その警告を守ってか、今や大衆車も名だたるスポーツカーと同等の扱いをされる時代。初代カローラ、サニーのオーナーは誇らしげに愛車を語り、慈しむ。

’60年代の2代目コロナに至っては博物館寄贈希望者が列をなすほどだ。

では’50年代末から’60年代初頭にかけて大手メーカーから発売されたキャブオーバー型の1t積み車はどうだろう。思惑どおりオート三輪を駆逐はしたものの、

その姿をとどめる物は少ない。「トラックの国民車」たるトヨエースですら初代型はレアである。マツダ・ロンパー、ダイハツ・ベスタになると「幻の」という形容詞を付けなければならないだろう。

〝キャブオーバー不遇の法則〟は日産にも当てはまる。初代キャブオール、同キャブライトの現存車はきわめて稀だ。博物館が早くから保存すべきは、こうした昭和30年代の働き者たちだった……。

 

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山梨県甲府市のとある商店街に、旧車マニアがわが目を疑う光景がある。もう死滅したと思われていた初代ダットサン・キャブライトが、何食わぬ顔で荒物店の配達に出かけていくのだ。新車時の2トーンカラーには「カゴメクレンザー」の看板書き。1960年に山本荒物店3代目社長、山本仁太郎氏(故人)が新車で購入。以来48年間、オイル、水、バッテリーそして擦り切れた運転席を交換したほかはワックスすらもかけぬ自然の姿(?)で働き続ける。

タバコ、箒、ローソク、洗剤、工具、サビ止め塗料、なわとび、タライ……山本荒物店の店先にはあらゆる日用品が並ぶ。その品揃えの豊富さ大胆さはコンビニ雑貨品コーナーの比ではない。ホームセンターを濃縮したようなにぎやかさ、などという表現も失礼にあたろう。荒物店を現代にアレンジしたのがホームセンターなのだから。山本荒物店の創業は慶應元年(1865年)である。

「私が中学1年くらいのときですかね。学校から帰ると、甲斐日産のセールスマンが毎日のように頭を下げに来ていた。

『山本さん、頼むよ、頼むよ』って」話をしてくださったのは4代目店主、山本仁一さんである。父・仁太郎さんは「甲府一の頑固者」と呼ばれた意志強固な方。配達は雨の日も雪の日もオートバイにリヤカーを引いてこなしていた。トラックなど必要ない。そう断り続けたのに、ついにキャブライトを購入。

「不思議でした。子供だったので理由はわかりませんが、セールスの方が『あと1台売れば会社からカメラが貰えるんです』って必死だったのは覚えてます」 情に篤い方だったのだろう。


 

 

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ダットサン110/120と同じB1型水冷4気筒サイドバルブの860㏄。最高出力はわずか27馬力だが痛痒は感じないという。バッテリーは6V( V W用を使う)、アースはプラス落としである。エアクリーナーはオイルバス式。

エレメントを持たず、食虫花のごとくホコリがオイル溜まりに落ちるのを待つ。燃料フィルターは沈殿式。ガラスカップの底に綿のようなゴミが溜まっている。

 

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エンジンは室内からのほうが整備がしやすい。サイドバルブならではの平たいシリンダーヘッドには「着火1243」とある。左がオイルフィラーキャップ。


 

 

モータリスト魂

’58年デビューのダットサンキャブライトのコストダウンぶりは突出していた。

ライバルのトヨエースは、コラムシフト、横3人がけシート、PT20型コロナ用OHVエンジン。キャブライトはフロアシフト、ハンモック式2座パイプシート、ダットサン120型用のSVエンジン。

天井張りはハードボード1枚、助手席のワイパーは手動。

43万5千円という価格はトヨエースはもちろん、オート三輪よりも安価だった。

 

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荷台には父・仁太郎さんの手で木っ端が透き間なく敷き詰めてある。車体を錆びさせなかった一因か。


 

 

倹約精神

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パイプ式シートは’ 60年当時でも珍しい。助手席の座面はオリジナル。

運転席側はとうに擦りきれ交換している。プラグ交換はダッシュ下の黒いカバーを外して行う。


 

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助手席側のワイパーはなんと手動だ。これも同クラスのトラックでは過激な節約主義。


 

だが時代は「どうせカネを払うのなら高級なほうを」という贅沢指向にあった。

トヨエースがオート三輪の市場を席巻できたのはとりもなおさず「高級感」である。

’62年、キャブライトA20型はデザインを一新したA120型にチェンジされ、’64年にA220となる。

’68年のモデルチェンジでキャブスターへ車名が変更されたのは「廉価版トラック」というイメージを捨てるためか。

「ああ懐かしい。これ860ですか、1000ですか」

取材中、通りがかった旦那さんが声をかけてきた。心なしか目が潤んでいる。甲斐日産でキャブライトのセールスを担当していたというのだ(前出のセールスマン氏の部下にあたる)。

「山梨日産(当時)は売れ筋のダットサントラックを、私たちはキャブライトを任された。このクルマはエンジンの設計が古くメタルが焼き付く。上司からは魚屋さんに売り込め、と言われました」

魚屋さんなら耐用年数が短いから安いキャブライトは売りやすい、ということか。そんなクルマをよくぞここまでもたせたものだ。湿気の少ない車庫に保管し、重い荷物を積まなかったことが幸いしたのだろう。葦簀の束やダンボール箱を運ぶことはあっても、人力で積み降ろせる物ばかりだ。商品を丁寧に扱えば、荷箱も傷まない。

いやそれだけではなさそうだ。山本家のアルバムを拝見すると、キャブライトが来るまでリヤカーを引いていたという仁太郎さんのバイクがあった。「山本荒物店」と風切り板に書いたそのバイクはなんと高級車ホスクである。休日はリヤカーを切り離し、富士・箱根に仲間とツーリングに出かける最先端のモータリストであった。

「よく覚えてるのが、親父が昭和38年に新聞社主催の安全運転ラリーに出て、2位になったとき。『マグレだけどやったぞ』ってうれしそうでね」

ラリーに参加したクルマはホスクではなく、キャブライトだった。

その愛車のシート下に、純正の車載工具が残っている。ハンマー、組みスパナ、プライヤー、ドライバ……すべて日産の刻印が入るが、キャブライトの車載品がこんなに豪華ははずがない。

「クルマを買ったとき、メカニックの使う工具を注文したのかもしれません」

仁太郎さんは’97年に84歳で亡くなるが、70歳半ばまでキャブライトを運転した。

途中、何度も新型の売り込みがあったものの、頑として跳ね付けた。

 

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山本さんが家業を継いだ’83年、キャブライトは燃料ポンプのダイヤラムが破れて走行不能になっていた。ディーラーに相談するとすでにパーツはなく、もし作るならば型代だけで23万円といわれた。親子で肩を落としていると、整備工場を営む山本さんの同級生がセドリック用を流用加工して直してくれた。以来、車検はそこに任せている。

「それからは私も配達で乗るようになりました。今は軽トラックと併用しているけど、トイレットペーパー20箱なんてのを配達するときはキャブライトのほうがラクですから」

仕事が決まると、前の晩からバッテリーを充電する。中学生の頃、夜帰りが遅くなると迎えに来てくれた父。通学自転車をひょいと荷台に載せて走り出すあのときの笑顔がよぎる。


 

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「甲斐日産納」。その上に懐かしいバイオレットのステッカー。


 

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「カゴメクレンザー」は新車時に書かれたもの。「ウチは山梨の代理店なんです。当時、いくらかスポンサー料をもらったんですかね」。

今も東京の工場で作られ、ここで売られている。


 

 

ダットサン・キャブライト主要諸元

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・型式A20
・全長×全幅×全高=3720× 1603×1800㎜ ホイールベース2220㎜
・車重1810㎏
・エンジン B1型

水冷4気筒SV 総排気量860㏄ 最高
出力27 ps/ 4200 rpm 最大トルク5,9㎏ m/ 2400rpm 最高速度75㎞/h 最大積載量850㎏
変速機4段フロア


 

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