ダットサンの車名の由来とは?

偉大なるブランドは海外小型車で活躍

 

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ダットサン10型フェートンA型

 

 

かつての日産小型車の代名詞「ダットサン」。そのルーツをたどると、1911(明治44)年7月に橋本増治郎氏が現在の東京都渋谷区広尾に設立した「快進社自働車工場」に行き着く。小規模ながら日本初の自動車製造工場と位置づけられている。

この快進社自働車工場は、自動車修理や輸入車の組み立て・販売を手がけ、国産自動車の研究試作を行い、13(大正2)年にV型2気筒の試作車が完成した。翌14年には東京・上野の大正博覧会に「DAT(脱兎)号」と命名した自動車を出品し、銅牌を獲得している。

DATとは、後援者だった田でん健治郎氏(D)、青山禄郎氏(A)、竹内明めいたろう太郎氏(T)の3氏のイニシャルを取ったもので、漢字では「脱兎」のごとく走るという意味で「脱兎号」の表記も採用した。

 

 

DATSUN 

出資者のイニシャルD・A・T+「太陽」

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田 健治郎

DAT自動車を生み出す快進社自働車工場の出資者の1人。

政治家・官僚で男爵、台湾総督も務めた。

橋本増治郎氏が勤務した九州炭礦汽船会社の経営者

 

青山禄郎

橋本増治郎氏の同郷の友人で逓信省技

師。安中電機製作所・共立電機(現在のアンリツ)の社長を務めた

 

竹内明太郎

田 健治郎の部下で九州炭礦汽船会社の役員。戦後の内閣総理大臣だった吉田茂の実兄にあたる。

小松製作所や唐津鉄工所の創立者

 

日本の国土に適した自動車を製造し、輸出しようという野望を持っていた橋本増治郎氏だったが、経営的には厳しかった。軍用保護自動車(1918年制定の軍用自動車補助法に基づく)や乗合自動車の営業を行ったりしたが、快進社(25年にダット自動車商会に発展)は26(大正15)年に大阪の実用自動車製造と合併(ダット自動車製造)した。

このダット自動車製造は、現在の軽自動車にあたる小型自動車規格(26年に制度化)が1930(昭和5)年に改正され、排気量が360㏄から500㏄に拡大されたのを機に、4気筒500㏄エンジンを搭載した試作車を完成させた。翌31(昭和6)年に、ダット号よりも小型で子供のように小さかったことから「DATSON」と命名した。この年、自動車部品を製造していた畑鋳物は自動車製造への進出を図り、ダット自動車製造を傘下に収めた。

翌32(昭和7)年にDATSON(ダットソン)の販売にあたり、SONは「損」に通じるというわけで、太陽のSUNに変更。DATSUN(ダットサン)のブランド名が誕生する。

 

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ダットサンに変わる直前の「ダットソン(DATSON)」のカタログ。1931年のDAT91型は翌32年にダットサン10型となる。


 

ダットサンは当初、大阪で製造されていたが、戸畑鋳物は横浜(現在の日産横浜工場)に工場の建設を開始。33(昭和8)年に「自動車製造株式会社」に発展し、翌34年に「日産自動車株式会社」と改称する。35(昭和10)年には大量生産方式による一貫生産を行ったダットサンが横浜の工場でラインオフした。

 

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ブランド廃止から約30年を経た2012年に新興国向けエントリーモデルのブランド名として復活。

「初めてクルマを持つユーザーに最高の選択肢を提供する」というスピリットを継承している。


 

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ダットサンの事業を引き継いだ日産自動車が1933年から使用したダットサンのロゴマーク。昇る旭日と誠心を象徴する赤地の円にDATSUNと記したブルーの横棒(至誠天日を貫くという意味)を加えた商標だ。


 

この後、37(昭和12)年に誕生した大型車「ニッサン」に対して、ダットサンは日産が生産する小型車のブランド名に成長。ブルーバードやサニーは〝ダットサン〞の冠が付いていた。海外では日産車は「DATSUN」ブランドで展開されて親しまれたが、企業名とブランド名の統一を図るため、1981年に輸出ブランド名を「NISSAN」に統一する方針を発表。

以降、順次ダットサンの名称は消滅し、国内では唯一小型トラックの名前として残っていた「ダットサン」も2002年8月で生産終了になった。

2012年には新興国向けの小型車のブランドとして復活。すべての人にモビリティを届けたいという思いは変わらない。

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