マツダレストアプロジェクト、ついに完結!

マツダレストアプロジェクト、ついに完結!

 

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“ブランド価値”はどんな企業も気にかけているだろうが、マツダがそれを高めるために打った一手は少々ほかとは毛色が違う。

若手が起案し、有志の社員が数十名集結して取り組んだ、自社製品のレストアプロジェクトだったのである。

5年の歳月をかけたそれが無事に完結し、当企画に登場の運びとなった。

 

故を温ね、新しきを知る時は2013年までさかのぼる。

マツダ社内で20代を中心とした若手の社員が10名ほど結集し、ある目的を持った小さなチームが結成された。

どうすれば、よりマツダのブランド価値を高めることができるのか。噛み砕いて言えば、どうすればもっとマツダが好きになってもらえるか。それよりも先に、社員自らが自社をもっと好きでなければならないのではないか。

もっと好きになるためには、自社のことをさらに深く知らなければいけないのではないか。チーム内で議論が続けられた。

現在同社に勤める社員は、入社して以降のマツダについては知っているが、それ以前の歴史や変遷について深くは知らないことがほとんど。それはどんな企業でも似たり寄ったりだろう。無論それでも仕事はできるが、時として短期的な視点に陥りがちになり、未来を見据える妨げにもなりかねない。

過去の自社製品を知り、その設計思想に触れ、歴史を顧みることで自社への愛着を深めることができるのではないか。

そのための手段として、歴代のモデルを社員自らの手でレストアする……。

そんな案を若手社員たちは経営陣に上申した。

その情熱と心意気、言わば“マツダ愛”が、プロジェクト実現の原動力となったので

ある。以上のように同プロジェクトは、いわゆるトップダウン型ではない。社員の自発的な活動であり、さらにそれを受け入れる企業風土が、マツダという自動車メーカーの個性を形作る要素のひとつなのかもしれない。

こうして2015年に本格始動したのが、ONE MAZDA RESTOREPROJECTだった。

この時点から5年後の、マツダ100周年となる2020年を区切りとし、1年に1台のペースで計5台の車両をレストアする計画が立てられ、承認された。

 

COSMO SPORTS(110S) 1967年式

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“ロータリー47士”の逸話とともに、マツダの歴史を語る上で欠かせない存在であるコスモスポーツ。

現車は輸出仕様の110Sで、RHDながらマイルメーターが装着されていた。

夏休みとなる8月には地元の高校生を招いてのレストア体験が実施され、以降のレストア車両の恒例行事ともなる。過去に同社の部品を生産した実績のある約30社のサプライヤーの協力も得て、不動状態のままだった貴重な前期型L10Aは数十年ぶりに見事復活した。


 

R360COUPÉ 1960年式

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マツダ初の市販乗用車であり、国産の軽自動車として初めて、流体トルクコンバーターを用いたAT車を設定したことでも有名。乗用車普及を目的に安価に仕上げるための簡素化、軽量化の工夫にメンバーは感銘を受けた模様。レストア途中の’16年8月には地元の工業系高校の自動車部に所属する生徒を招き、レストア作業体験を実施した。同じく高校生、関係サプライヤーも招いての公開レストアを実施。同プロジェクトは地域密着型のレストアでもある?

 

若手の発案で始まったプロジェクトではあったが、実施に当たっては年齢、職種の制限なく全社員に向けて参加を公募する形が採られた。フタを開けてみれば、予想された技術職だけではなく事務職からも少なからず手が挙がり、多くはないが中には女性もいた。

年齢層も幅広く、入社数年の20代から大ベテランの50代まで、まんべんなく集まったという。

さまざまな思いを抱くマツダ社員たちが、レストアという未知の体験に目的を持って集結、過去の自社製品の復活劇を見事に演じたわけだ。

「対象車両それぞれで大きな壁に突き当たりましたが、最後までやり切ったメンバーには熱意と底力を感じました。プロジェクト後のメンバーたちは、多忙な日々のなかで個人の目的追求だけでなく、仲間を思いやり組織として成果を出そう、目的を達成しようという意識がより高まったのではないでしょうか」

こう振り返って語るのは、プロジェクトを計画化、予算化などで支援した事務局の岩永雅彦さんだ。

 

多くの協力があってこそ

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対象となった車種については明確な基準こそないが、各年代で象徴的なモデルが選ばれたという。

プロジェクトの最初を飾ったのは、やはりコスモスポーツ、それも前期型のL10 Aだった。

’61年に独NSUとライセンス契約を締結して以降、苦心惨憺の末に実用化した世界初の量産型2ローターREを搭載する同車は、マツダのチャレンジングスピリットを象徴する1台として永遠の存在と言えよう。

ベース車両はマツダのミュージアムで保管されていた個体で、正確に言えばコスモスポーツではなく輸出仕様の110Sである。この個体がどういった経緯でマツダに戻ってきたのかは不明だが、見た目以上に状態が悪いということだけは判明した。プロジェクトのメンバーはレストアは初めてという人ばかりで、板金などの社内スペシャリストの手を借りたり、一部は部品供給のサプライヤーの協力も得つつ、週1回に定められた作業日に慣れないレストアに没頭した。

コスモスポーツは約1年後の’16年の春にかけ、20名のメンバーでレストアされた。以降R360クーペ、ルーチェロータリークーペ、BD型ファミリア、そしてGA型“グリーンパネル”の5機種計6台で、のべ80名近いマツダの社員たちがレストアに参加したのである。

それに加え、部分的に協力した専門的技術を持つ社員、レストア体験に参加した地元の高校生、プロジェクトに賛同したサプライヤーの各関係者までを含めると、関わった人数はさらにぐっと膨らむことになる。

多くの人の努力が結実したプロジェクトの、実働メンバーはどのような体験をし、何を思ったのか。ルーチェロータリークーペのプロジェクトに志願した、國本拓也さんは以下のように語る。「普段は部品調達などの事務職をやっていますが、自動車メーカーに勤めながら自分でクルマに触ったことがないことに違和感を覚え、参加しました。いざやってみると、動かない状態から始めるレストアというものが、サビ落としひとつ取っても“こんなにも大変なのか”と思いましたね……。イベントで古いマツダ車に乗る方にお会いし、何に困っているか、どこに苦労があるかを聞く機会は以前もありましたが、それを実感した形です。この経験のお陰で、新車では当たり前のエンジンが掛かって走れるということだけでも、これほどにも嬉しいものなのだと知りました」

本プロジェクトで完成した各車両は実動状態のまま、今後もイベントなどでデモ走行をさせるなど、積極的に活用されていく方針となっている。そのための体制作りも、今後は強く推し進められてゆくことだろう。

クルマ作りは昔と様変わりし、作られるクルマも大きく変わった。だが、現代の街を走る現代のマツダ車を作った人たちの中に、旧車のレストアに没頭し、その過程と完成にときめいた人がいる……。

そう考えるだけでも、何だかちょっと嬉しいではないか。


 

LUCE ROTARY COUPÉ 1969年式

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マツダロータリーとして唯一のFFを採用し、高級車としての豪華さをねらったマツダ初づくしの各種装備は、ジョルジット・ジウジアーロの流れを汲むエレガントなたたずまいとは裏腹に、半世紀を経た現在ではレストアする者を手こずらせる要因となっている。特に、同機種のみに採用された13A型ロータリーの再生には苦労が伴ったことだろう。ボディ、パワートレインなど担当を分け、プロも尻込みする困難な題材ながら限られた時間内に完成させた。

 

FAMILIA 1980年式

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歴代の同名モデルでは最多の生産数を誇るBD型ファミリア。駆動方式にシリーズ初のFFを採用し、ファッションでルーフキャリアにサーフボードを載せる“陸サーファー”も生み出した大ヒットモデル。印象的なサンライズレッドの塗色で「赤いファミリア」とも呼ばれた。’70年代に訪れたマツダの窮地を、初代RX-7とともに救った1台だ。現車は25万㎞走行後に社内で保管されていた個体で、レストアするに際しては、部品製作などで協力したサプライヤーは60社にまで増えた。

 

GA型1945/1947年式

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空冷単気筒サイドバルブ、ボア・ストロークが90.5×104㎜の自社製669㏄エンジンを搭載する三輪トラック。最高出力は3200rpmで13.7psだった。DA型は戦前の’38(昭和13)年から戦後にかけて11年間も生産され、今回のプロジェクトでレストアされたのは戦後の生産型。マツダは戦時中に原爆の惨禍を経験しているが、終戦の年にすでに生産を再開していたことは驚きに値する。レストア作業のメインとなったのは’47年型で、その苦闘の模様はP38~を参照してほしい。

 

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