トヨタパブリカ800UP30-D(1969年式)空冷エンジンの2代目

トヨタパブリカ800UP30-D(1969年式)空冷エンジンの2代目

 

01-1

 

想い出も乗せて走るセダン

相棒は超レア車 空冷エンジンの2代目パブリカ

初代に比べ、カローラ譲りのK型エンジンを主力に据え一新された2 代目パブリカの印象は薄い。さらに薄いのが、先代から引き継いだ空冷水平対向を載せた、このUP30である。

 

06

最高速120㎞ /h、定地燃費25㎞ /ℓは20系と変わらず。岡本さんの計測では15㎞ /ℓ程度だが、

お父様に確認すると「よう走りよったで。20㎞ /ℓは伸びよったなあ」。


 

 

なぜ売ったのか?

不幸にしてレア車となる背景には、限定仕様、販売不振、欠陥などいろいろあるが、大衆車や商用車など、総じて相場が低めなカテゴリーに存在するものだ。

さんさんと照らされる光があればこそ、その陰にレア車が生まれるわけである。

このUP30型パブリカ800は、まさに大衆車という、数を売ることを使命として与えられた新星の陰そのものだ。どうやら当時、広報車さえ用意されていなかった(と思われる)のだから、やはり同車は陰の存在だったはずである。

デビュー時のエンジンには、カローラSLと共通のK-B型1077㏄(SL)、そのK型のボアを3㎜縮小して993㏄とした2K(1000)、そして先代を改良した2U-C型790㏄(800)が用意されていた。ところが1000とSLに関しては、姉妹誌『ドライバー』のほか各誌で試乗レポートが展開されているものの(ナンバーから広報車は複数台用意されていたことがわかる)、パブリカ800だけは、名だたる専門誌いずれでも試乗していない。

スタンダードなど廉価グレードの用意がないのであれば理解できるが、走行性能を左右するエンジンタイプで欠落があるのは、どうしても納得がいかないのである。

それまでさんざん使われてきたエンジンだから、今さら用意するまでもないということか? 「『パブリカ』という名前のほかは──ネジ一本までが、新しい!」は当時のセールスコピー。ならば800がどう変わったのか、知りたい人は少なくなかったのではないか?

トヨタ自販・販売拡張部が製作した「セールスマニュアル」を見て、このわだかまりはピークに達した。その冒頭には、「発売以来8年にわたり、根強いファンを持っていたパブリカは、ここに新しくパブリカ1000として、生まれ変わりました」とある。

 

03

世界的流行となっていたセミファストバックスタイルを採用し、若い世代が求めるスポーティさを演出。現車のカラーはシェリアレッド。ほかに白、緑、黄、灰、淡青、青の「個性的で開放的な、青年のカラー」があった。


 

トヨタは当初から800を売るつもりがなかった……そう考えるべきなのか。

実際1000と800の価格差はわずか3万円に過ぎなかった。800デラックスよりも1000スタンダードのほうが2万円安かったのだ。それでいて馬力は40馬力と58馬力だ。

では、なぜ売るつもりのない空冷2気筒を、専用部品を作ってまで新型車に載せたのか。K型の信頼性に自信がなかった──

’66年登場のカローラで初期トラブルは検証済みのはずである。

作り過ぎた2U型の在庫整理なんて話も、まことしやかに言われたりするが、ミニエース(2U-B)の販売はパブリカ800消滅後も続いたし、さらにその後、コースターなどの補助エンジンとしても造られたから、これは考えにくい。

この疑問を愛好家にぶつけると、「空冷に対する根強い評価があった」という返事を得た。それほどまでに初代パブリカの支持、2U型への大衆の愛着が高かったということになろうか。経済性(燃費)への評価も高かったと聞く。UP10~20系が40万台以上も生産されたことを踏まえると、買い替え需要は無視できなかったと、確かに考えられる。

しかし結果は、決して芳しいものではなかった。それは車台番号から生産台数を割り出してみても明らかだ。乗用UP30の1万1497台に対し、貨物UP36が1万8113台。デビュー年の’69年だけで9万台以上が生産されたKP30系(乗用&貨物)と比べても、その数は圧倒的に少なかった。

’69年4月の発売から3年経たない’72年1月、パブリカ800は早々に姿を消した。その期間、3年弱。もしこれが、買い替え需要の一巡をトヨタが待った結果だとしたら「恐るべし」なのだが、ヒーターが効かないことが決定的な問題だったと見るのが無難らしい。標準仕様に付く空冷専用ヒーターには、ブロアモーターがなかったのである。

 

A-01-1

独立したメーター部に先代の面影が残る。800のヒーターは排気式のため本来ブロアを備えないが、燃焼式ヒーター装着車にはデフロスタ切り替えスイッチ付きコントロールパネルが付く。ラジオはデラックスに標準装備。


 

岡本さんの同車に対する情熱はハンパではない。中・高校生のころから、免許を取ったらこれに乗ると決めていたほどなのである。

「2歳のころ、父が買った初めての新車がこのパブリカ800でした。それから中学3年(’82年)の5月まで、私の家にあったんです」

当時は継続検査を5回受けると、以後は車検有効期間が1年に短縮された。12年で六万数千㎞程度と決して酷使されてはいなかったが、これを機に岡本家ではzパブリカ800を廃車にすることになった。

お父様は、取り立ててクルマ好きではなかったという。

 

07

しかし、そこで古きことの良さを知る鉄道少年の血が騒いだのだろうか。それまでクルマへの興味が強かったわけではない岡本さんに、この廃車宣言を契機に執着心が芽生えた。間もなく、3年落ちのタウンエースが来ることにもなっていたから、家族のクルマとして乗り続けることが非現実的なのはわかっている。しかし岡本さんは諦めきれなかったのだ。

「免許を取るまで置いておいてほしい」と父親に懇願した。

その甲斐あって、パブリカはクルマ屋の廃車置き場で保管してもらえることに。

数年すれば、岡本さんも18歳になる。期待は膨らんだ。ところが現在乗っている赤い800はそのクルマではない。パブリカとの紆余曲折はまだ続く。

なんと、ちゃんと保管してもらえるはずだったパブリカの上に、他の廃車が積み上げられてしまったのだ。屋根は凹みガラスは割れ、部品も一部はぎ取られ、見るも無残な状態となったのは想定外だった。いよいよ大学生になったが、もう乗ることなどできないことはわかっていた。そんなある日、ダメ押しのとんでもない事件が発生する。クルマ屋を見ると、パブリカが廃車置き場から忽然と姿を消していた。慌てて確認すると「解体屋に行ってしもうたよ」。


 

A-02

斬新だ。カタログでは「足の長いかもしか青年にも、ぴったり! ” 99パーセンタイル”のドライビング・ポジション」とある(100人中99人が適正なドラポジを取れるという意)。バケットシートは前後120㎜スライド、15段階リクライニング。シートベルトまで赤いことに驚く。


 

B-01

40 ps /6 . 4 kgmのスペックは20系セダンと同じだが、潤滑方式や冷却能力を変更した2U-C型を積む。目に見える部分では、エレメントをカローラと共通化したエアクリーナーケースや、ロッド式からワイヤー式に改良されたアクセル機構などが異なる。また、北海道で登録されていた車両だけあって、現車にはディーラーオプションの燃焼式ヒーターが付く(20 系用と比べ効きをアップ)。


 

この続きは・・・旧車オーナー読本にてお読みください。

51WfMzjlF+L

旧車オーナー読本

カテゴリ一覧へ戻る