日産スカイライン2000GT-R(1969年式)20年の時を超え甦る親子の思い
日産スカイライン2000GT-R(1969年式)20年の時を超え甦る親子の思い
スカイラインに魅せられて
20年の時を超え甦る親子の思い
子供は成長し、クルマは時とともに劣化していく。いずれをも手塩にかけて慈しめたら理想だが、現実的には難しい。そこでクルマを冬眠させる選択をした結果、子供までが復活の日を待ち望む“好き者”に成長してくれた。
新車より中古のハコスカ
スカイラインというクルマほど、世のクルマ好きに愛された車種も珍しい。ここまで人気があると敬遠してしまう読者が本誌には多いようだが、それもこれも圧倒的な支持率の裏返し。筆者の父も40年ほど前にハコスカを所有しており、子供心に「スカイラインは特別なクルマ」という認識を持っていた。だから、親子でスカイライン好きという組み合わせは自然なことと受け入れることができる。
だが、20年も寝かせていた、しかもそれがGT-Rだと聞けば普通の多数派とは違うと容易に直感できた。
父である山中 均さんは現在68歳。昭和45年というから45年前の23歳時に自動二輪の免許を取得してバイクに乗り始めた。大工さんという仕事柄、技を磨くことを優先して免許取得は後まわしになったようだ。だからだろうか、反動は強く2年後には普通自動車免許も取得。
2台所有するカワサキWと並行してハコスカGT-Rを中古で手に入れている。
時は1972年。まさにスカイライン全盛期ともいえ、ハコスカからケンメリへとモデルチェンジを果たし人気が爆発した時期だ。そして’73年、マニア待望のGT-Rが復活。当然、均さんもハコスカからケンメリへ、GT-Rを乗り替えようとディーラーへ駆け込むが、時すでに遅し。販売分は完売となっていた。そこでケンメリGTを買うものの、ハコスカGT-Rは手放さなかった。
まさにクルマ好きバイク好きの道を精進していた均さんだが、転機はやはり結婚。
昭和50年に結婚して今の住まいを手に入れると、趣味は縮小を余儀なくされる。新車購入したケンメリは手放し、新婚旅行にハコスカGT-Rで向かった。
「スカイラインといえばGT-やっぱり特別なクルマだからね」と、手放さずに持ち続け、手に入れた自宅の脇に手作りでガレージまで建ててしまったという入れ込みようを語る。
思い出とともに冬眠
すでに切っても切れない関係になっていたGT-Rだから、子供が生まれて家族でドライブに行く時もGT-Rの出番。
これがもしハードトップだったら話は変わっていたかもしれないが、「羊の皮を被った狼という表現に引かれて」セダンを選んだ。だからふたりの息子に恵まれ、家族全員で旅行する場合でも不便はない。
そして、このドライブ旅行ですっかり息子もクルマ好きになってしまった。
特に長男の康史さんがGT-Rに入れ込んでしまった。成長とともにくたびれていくGT-Rのことを気にかけながらも、いずれは自分でドライブする日を夢見るようになった。だが、GT-Rはエンジンが温まると止まってしまう症状が顕著になり、昭和63年の点検整備を最後に車検は切れてしまうのだ。
高校生になるとご多聞に漏れずヤマハTZRやホンダNSRといったレーサーレプリカ・バイクに乗り、地元の峠へ通う康史少年。その脇には毛布をかけられたGT-Rが冬眠しており、どこで知ったのか「売ってほしい」と何人ものマニアが山中家へ訪れた。父の均さんとて売る気はなかったが、康史さんから事あるごとに「俺が乗るから売らないで!」と頼まれていたため、すべての話を断り続けることになった。
そんな康史さんが専門学校へ通いつつも乗り続けた四輪はAE86。後輪駆動スポーツカーは譲ることのできない、いわば条件のようなものだった。AE86とともに京都へ引っ越し、板金塗装職人として腕を磨き始めた康史さん。26 歳で結婚、翌年には長女の美穂さんを授かり、AE86は手放すこととなる。
そんな山中親子にとって康史さんの誕生、GT-Rの車検切れに続く転機となったのは、康史さんが京都から地元である舞鶴へ戻った2006年。地元へ戻れば青春時代を過ごした悪友とも再会するし、そうなれば走りを楽しみたくもなる。
実家へ帰ればGT-Rは京都へ出るときとまったく同じ状態で毛布を被せられていた。その状況が長く続くはずもなかったのは、誰しも想像できることだろう。
クルマ好き少年から整備士への道を歩み、福知山で独立していた吉良自動車の吉良和彦さんは、実は康史さんとは幼馴染み。心強い友がいれば、自分の腕も生かすことができる。GT-Rを復活させる機が熟した瞬間だった。
GT-Rが強めた絆
7年前に吉良自動車へと持ち込まれたGT-Rは、思いだけではなく20年分の汚れも堆積させていた。キャブやオイルパンを開ければ気化してヘドロのようになった元ガソリン、ラジエターだけではなく水路という水路は元冷却水だったサビとヘドロの混合物。足まわりには元ゴムだった崩れかけのブッシュといった具合で、単なる整備で復活するほど生易しい状態はとっくに過ぎていた。
やはりというか、ガソリンタンクは使い物にならず新規製作することとなり、燃料経路もほぼ作り直し。キャブはオーバーホールで対応できたが、水路の洗浄と合わせてエンジンは車体から降ろすこととなり、ガスケットやパッキンを総交換。足まわりも全バラ後、ブッシュやベアリングを総交換。
冬眠するきっかけとなったエンジンの不調は、イグナイターの不良により熱を持つと正確な導通が行えなくなっていたことが判明。さらに悪いことに修理をしようとして手を加え、中途半端な状態のままとされていた。そこで新品部品をオーダーすると、なんと10万円という価格ながら純正が出てきた。背に腹は変えられないということで交換し、ハーネスも一部引き直して電気系を見直した。
ほぼ1年近くの時間をかけた結果、20年の冬眠から目覚めることになったGT-R。感激したのは自らエンジンルームや傷んだ個所の塗装を手直しした康史さんばかりでなく、父の均さんも同じ。
それからは年間10カ所以上の旧車イベントへ足を伸ばすようになった。
もちろん運転するのは均さん、と思いきや「クラッチもステアリングも重い」と、行きは担当しても疲れた帰りは康史さんの出番となる。母のちゑ子さん、妻の忍さんと娘の美穂さんも同乗して、一家でGT-Rを楽しむようになった。
「でも俺が死ぬまで名義は譲らないんだ」と笑いながら均さんは言う。それはGT-R好きになった息子との時間を大切にする気持ちの現れにも感じられる。
親子の絆をGT-Rが繋いでいるのなら、自分の目が確かなうちは手放さない、そんな楽しみ方もあるのだろう。だから最近、康史さんはGT-Rだけではなく自分用にとAE86を物色し始めた。
取材時には、さらに高校時代の友人まで現れた。「実はこの後、気になるAE86があるので一緒に下見に行くんです」。
そんな姿を呆れつつも暖かく見守る家族たち。クルマ好きっていいな、と思える瞬間に立ち会えた。
エンジン本体はオーバーホールしていないので、そろそろオイル消費が多くなってきた。ガスケットとパッキンの総交換と徹底した洗浄により甦った。
室内は張り替えていないがヒーターやメーターは外して修理済み。’ 69年までのウッド調インテリアはクラシカルな趣を感じさせる。ナビとETCを装備した。
運転席の座面が裂けてしまったが、それ以外は傷みが少ない。カーペットやマットは46年選手だが、まったく不都合ない。
この続き、詳しくは以下のムックにて掲載されています。
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